追憶の眼差し
あの日から、僕は消防車のサイレンの音が嫌いになった。 朝から雪の降り積もる、一月も終わろうというある日のことだった。 僕は大学の実験室にいた。卒業論文で必要なデータをとるために、メスフラスコやホールピペット、さまざまな試薬類と日々格闘していた。 消防車のサイレンが鳴り出した。 大学のそばに消防署があったため、突然けたたましい音をあげて出動することは珍しいことではなかった。僕は、同じく実験に没頭していた梶原という同じ講座の男子学生に、何の気なしに声を掛けた。 「火事だなあ」 すると梶原からも、呟くようなのん気な返事がある。 「まったく、こんなに寒い日に……災難だよなあ」 実験室には二人だけだった。午後になれば他の学生も実験をしに来るはずだ。 サイレンの音は、いっこうに遠ざからなかった。 「意外に近いね。梶原の下宿なんじゃない?」 軽い冗談だ。本当にそう思っていた訳ではもちろんなかった。 梶原は僕の冗談もちゃんと笑いながら、それでも実験の手を止めることはなく、淡々と言った。 「燃えりゃあいいんだって、あんなボロ下宿はよ。根岸はいいよなあ、優雅な自宅生じゃん」 「もうちょっと近かったら、言うことなしだけどな」 ありきたりの会話だったように思う。 サイレンの原因が一体何なのか、ということなど。 まったく、気にならなかった。 次の日の夜、中学時代の友人、シンから珍しく電話があった。 シンは高校は違えどよく遊んでいた、比較的仲のよい友達だった。しかし、僕が大学に進学、シンは就職と道が分かれてからは、音信不通となっていた。 それでも、三年ぶりというブランクをまったく感じさせない懐かしい雰囲気が、僕には嬉しかった。 その一方、シンの口調は、なんとも歯切れの悪い重苦しいものだった。 「根岸さー……純哉んち、火事になったって知ってる?」 いきなり、衝撃の事実を知らされた。 ……純哉? ……火事? 純哉はシン同様、中学時代の大の仲良しで、ここしばらくは音信不通になっていた。 そこでようやく、あのサイレンの音が何であったか、理解できたのだ。 「もしかして、昨日の昼近くのアレ……なのか?」 「おれは会社行ってたからよく分からんけど、新聞にはそう書いてあったよ」 純哉の家は、僕の通っている大学のすぐ近くにあった。 けっして遠ざかることのない、消防車のサイレン――。昨日の出来事が鮮明に蘇ってくる。 僕はそのとき、梶原と――。 「男が一人死んだって書いてんの」 「純哉? 弟? それとも純哉のお父さん?」 いずれにしても重大なことには変わらない。 「おかしいんだよ、それが書いてないんだよ。火元っていうので純哉のお父さんの名前は出てるのに、死んだほうは書いてないの」 訳が分からなかった。 「だから……載せられないんじゃねえのか、って」 「どういうことだよ? シン、お前、何か知ってるのか?」 言いにくそうにしているシンの口からようやく発せられた言葉に、僕は茫然自失となった。 信じられなかった。 純哉が、――自分で自分の身体に火をつけたのだ、と。 頭がおかしくなりそうだった。いや、おかしくなっていた。 自分の目で確かめたい。 でも、事実と向き合うのが怖くて怖くてたまらなかった。 家の場所は知っている。中学時代に毎日のように入り浸っていたのだから、間違えるはずはない。 しかし、こんなにも重い足取りでこの道を歩いたことは今までに一度もなかった。 小路を入り、さらに二つ角を曲がったところに純哉の家はあるはずだった。 身体の震えは止まらなかった。 家はちゃんとあった。全焼したわけではなかった。 しかし。 純哉の部屋の窓だけが、異常に焼け焦げていて損傷が激しかった。 中からブルーシートで覆うようにされていたが、白い壁にこびりついた煤の跡は、炎の威力を物語っていた。 あたりは静まりかえっていた。 普段から人通りの多くない閑静な住宅街だったが、周囲の住民がつとめて関わりを持つことを避けているのではないか、そんな風に思えた。 玄関のほうへ歩いていくと、ドアに小さなメモ紙が貼られているのに気がついた。 引越し先の住所だ。 全焼していないとはいえ、消防の放水によって、中はちゃんと住める状態ではなさそうだ。 どうして、こんなことになってしまったんだろう。 ただ、それだけだった。 悲しみとか、怒りとかそういった感情は自覚できなかった。 僕は呆然とした頭に、メモの中の住所を叩き込もうと必死になった。 同じ市内に家族は引っ越したようだった。古びた市営住宅の一階にその番地は存在した。 市営住宅は高倍率の抽選で入居が決まるといわれている。こんなにすんなり引越しできたのは行政側の配慮であるに違いなかった。 インターホンを押すと、中から中年女性が出てきた。黒い服に身を包み、その顔は恐ろしく生気が感じられなかった。 よく知っている。 中学時代よくお世話になった、純哉のお母さんだった。白髪が幾分増えていた。 おばさんは僕の顔を見るなり、怯えたような顔になった。 「根岸くん……あんたどっから聞きつけたん?」 明らかに歓迎されていなかった。 「新聞に火事のあった家の住所が載ってて、純哉んとこだったから……。家まで行ったらさ、ドアにここの住所が貼ってあって……」 僕がそこまで必死に答えると、おばさんは尚も警戒を解こうとせずにこう言った。 「誰がそんなことしてくれてんのさ……知られとうなかったのに」 おばさんの悲しみに満ち溢れたその赤い目をみて、僕はようやく、取り返しのつかない事態に今まさに向き合わされたのだ、と気がついた。 それでもおばさんは、僕を中へと招き入れてくれた。 純哉の友達が来てくれるとは思ってへんかったから、と僕に背中を向けながら言った。 玄関にはたくさんの靴が雑然と置かれていた。その数、十足以上。人が集まっているらしい。 線香の匂いが辺りじゅうに立ち込めていた。 普段家の仏壇に供えるような軽い香りではなく、寺社仏閣で焚きつけられる濃厚なそれとよく似ていた。 居間らしき部屋に続くドアをおばさんは開けた。それに続いて僕が入っていくと――。 何人もの見知らぬ大人が歓談を止め、いっせいに僕のほうを振り返った。 お前は何をしにここまで来たのだ、そう、責めているかに思えた。皆一様に黒い服に身を包み、――恐らくごく近しい親類なのであろう。 僕はまさかここで葬式の準備が進められているとは思ってもみなかったのだ。セーターにジーンズにコートにマフラーと至って普段着のままだったのが、すごく浮いてしまっていた。 大っぴらにせず、こっそりと内輪で葬儀を執り行うことにしていたらしい。 部屋の中には小さな祭壇が既に組まれていた。 中央に設置された遺影には、昔と変わらぬ純哉の人懐っこい笑顔。 「せっかくだから、線香を上げてやってちょうだいな」 立ち尽くす僕に、おばさんが声をかけてきた。 「ごめんな、顔は見せてあげられへんけど」 これまで葬式の経験のなかった僕は、ぐちゃぐちゃの精神状態と相まってどうしてよいのか分からずに途方にくれてしまったが、とりあえず座布団に正座し、目の前に何本も並んで置かれている太く長い線香を一本とり、ろうそくの火へ手向けた。 しかし、いつまで経っても、火はつかなかった。 ろうそくの火が揺れているせいだ、と思った。しかし実際は、線香を持つ自分の右手が異常なまでに震えているのだ、ということに気が付いた。 僕は左手で右の手首を押さえ、必死に火をつけようとした。純哉がこちらを見ている。綺麗な布に包まれた棺桶に、焼け焦げた純哉が横たわっている。 喉の奥から、堪えきれなくなった嗚咽が漏れた。 その後三日間、僕は大学を休んだ。 卒業論文を書くためにしなければならない実験は山のようにある。一日だって惜しいこの時期に休みたくなどなかったが、身体がいうことをきかなかった。 コートに染み着いた線香の匂いに吐き気がした。高熱に冒され、食べ物も受け付けなくなった。 純哉がここ二年ほど精神不安定な状態にあったということを、おばさんから初めて知らされたのだ。 僕が純哉と連絡を取らなくなったのもその頃だった。 勉強にバイトにサークルにと、とにかく大学生活が楽しくて仕方がなかったのだ。 純哉は専門学校に進学したのだが途中で辞めて、不定期にアルバイトをするようになったということだった。そこまでは僕も知っていた。 そしてそのあと、だんだん引きこもるようになっていったのだ、と。 近くに住んでいるのだから、会おうと思えばいつだって会えるんだし、という僕の勝手な考えが、彼を救える唯一の道を断ち切ってしまっていたのではないかと、自己嫌悪に陥ってしまった。 どこをどう考えてみても、純哉を救うべきだったのは僕だったのではないか。 中学入学から卒業まで、片時も離れることなくつるんでいたのだ、僕たちは。 帰り際におばさんが言ったひと言が、僕の頭から離れなかった。 「純哉はね、中学ん頃が一番明るくて楽しそうで輝いてたなあ。根岸くん、本当に来てくれてありがとうな。一番仲のいい子がちゃんと来てくれたんだもん、純哉は幸せもんだわ」 僕は「一番仲のいい子」だったのだ。 もちろん僕にとっても、純哉は「一番仲のよい友達」であることには変わらなかった。 ただ、それが今では「一番仲の良い友達の、一人」になっていたのは、言い訳しようもない事実だった。 俺が、もし純哉の話を聞いてやれていたら。 いまさら考えたってどうしようもないことばかり、一日中考えていた。 とにかく頭から純哉の顔が離れないのだ。 自分の部屋で灯油をかぶって自分に火をつけた。ああ。 僕はサイレンの音を聞いていたのだ。すぐ近くで。 燃えゆく純哉を、鎮めようと急ぐ消防車のサイレンを、僕は――。 冗談を言いながら、友人と笑っていたのだ。――最低だ。 いつまで経っても、僕の周りから濃い線香の匂いが消えることはなかった。 火事があった日から四日目の昼、僕はようやく大学へと出かけた。 教授の部屋に挨拶しにいき、そのあと講座の実験室に顔を出そうと廊下を歩いていると、ちょうど梶原に出くわした。 梶原の奴は今日も実験に没頭しているらしい。白衣にサンダルという定番の実験室スタイルだ。 「うわ、……根岸、どうしたんだ? ひでえ顔してるぞ」 梶原に指摘されるのはもっともだった。 ここ三日間、ほとんど食事らしい食事をしていなかったためやつれていたし、よく眠れないので目の下にははっきりとクマが出来ていた。 梶原はどうやら僕の話を聞く気になったらしい。たまにはおごってやるから、と言って自販機の置いてある休憩室へ、僕を促した。 休憩室に人はいなかった。僕はベンチ椅子に腰を下ろす。 梶原は何も聞かずに僕に温かいカフェオレの缶を差し出した。自分は無糖のコーヒーを選んだ。 甘く柔らかな苦味のコーヒーを飲みながら、僕は梶原にすべてを話した。 あの日のサイレンを一緒に聞いていた梶原にだからこそ、僕はすべてを打ち明ける気になれたのだ。 梶原は真剣な面持ちで、きちんと一通り僕の話を聞いてくれた。 そして、事の次第を把握すると、梶原は言葉を慎重に選ぶようにして、僕に言った。 「根岸のせいじゃねえって。根岸でも、止められなかったんだよきっと」 気休めにしか聞こえない梶原の言葉に、僕は必死に反論した。 「そんなことない。僕ならきっと純哉を救えた」 「どうやって?」 梶原の声は穏やかだ。どうしていいか分からない僕の淀んだ心の中に、何の抵抗もなく染み込んでくる。 どうやって。どうやって、純哉を。 「……死ぬな、って。命を粗末にするな、って。生きていたら楽しいことはきっとある、って……」 どんな言葉を寄せ集めても、陳腐な飾り文句にしか自分でも思えなかった。 楽しかった頃の二人の思い出を、急いで引っ張り出そうとするが――それは日々移ろいゆくもの。 三日前まで僕の心の中は、純哉の占める割合は皆無に等しかったのだから。 梶原は残っていた缶コーヒーを一気に飲み干した。空き缶を両手でもてあそびながら、諭すように語りかけてくる。 「それはどうだろうなあ。いくら根岸が言っても、きっと運命は変わんなかったって」 僕は飲みかけのカフェオレの缶をベンチ椅子の端に置いた。そして、壁に背を預け、焦点の合わぬままぼうっと梶原の言葉に聞き入っていた。 「生きてる意味を見出せなくなった人間に本当に必要なのはさあ、『命の大切さ』じゃなくて『生き抜く術』なんじゃないかなあ」 意味のない世界を、生き抜いていく方法を――。 「誰かそいつに、教えてあげてやれる人がいたらよかったのになあ」 隣にいるはずの梶原の声が、僕のずっとずっと遠くのほうで響いた。 指折り数え、初七日に当たる日の夜。 夢に、純哉が出てきた。 中学時代のまま、懐っこい笑顔で僕に語りかけてきた。 ちゃんと僕に会いにきた。 ――根岸、久しぶり。 『なんだ、生きてるじゃないか。心配したんだぞ』 ――良かった。ちゃんと俺のこと覚えててくれたんだ。 『当たり前だろ。純哉は僕の一番の友達じゃないか。一番の友達だったじゃないか……』 夢の中の僕は、自分の流す涙で出来た池に、いつしか溺れていた。 それからは、いつもと変わらぬ日々に戻った。 卒研発表に向けて、追い込みをかけなければいけない。やることは山ほどある。 梶原が気を利かせて、必要な試薬を多めに揃えておいてくれた。自分の研究の手を止めてまで。ありがたい。 もうすぐ卒業だ。そしたら、いまの仲間たちとは離れ離れになり、いつしか音信不通となるのだろう。 その時その時を大切に精一杯生き抜くことが、どんなに意味のあることなのか。今の僕は、それをはっきりと感じることができる。 実験はもうすぐ終わる。 試料の入ったビーカーを熱するガスバーナーの炎を眺めながら、祭壇のろうそくのそれと重ね合わせた。
(了)