大切なひと
嶋口尚孝が中高時代の同級生である芝本菊子に会ったのは、実に三年ぶりのことだった。 大学を卒業する辺りに中学の同級生の結婚式があって、そのまま音信不通――よくある話である。 高校までは仲良くつるんでいた仲だったが、大学は東京と地方とで離れてしまうと、年に一度顔を合わせるのがせいぜいだった。 彼女は黙っていればなかなかの美人だ。高校時代、密かに想いを寄せる男はたくさんいた。しかし、彼女に特定の彼氏がいたことはなく――彼女いわく「それは尚孝のせい」とのことだった。 それも、高校を卒業するまでの話である。 菊子が東京の大学へ進学すると、すぐに年上の彼氏が出来たとの噂が、尚孝の耳にも届いた。 それからは、尚孝が自ら進んで菊子に連絡をとろうとすることはなかった。彼氏に妙な気を遣って、年賀状一枚すら出すのをためらったりもした。 そんな彼女と、どうして三年ぶりに顔を合わせることになったのか――。 久し振りに会った菊子は、昔と変わらず楽しそうにはしゃいでいた。 「尚孝、久し振りー」 彼女は東京の大学を卒業し、現在は地元企業でOLをしている。単調ながらも楽しく毎日を過ごしているようだ。 一方の尚孝は、実家に帰省するのは半年ぶりだった。 知らないうちに街並みはどんどん様変わりし、店が増えたり減ったりしている。 今夜菊子と待ち合わせた店も、尚孝は初めてだった。彼女は同僚たちと何度かランチを食べに来たことがあるらしい。夜メニューも食べてみたかったの、と尚孝に説明してくる。 「ねえねえ、昔の約束ちゃんと覚えてる?」 「約束?」 「あー、もしかして忘れちゃった? あのねー、誰にも引っかからなかったら、俺が責任とってやるーって、そう言ってたんだよ」 冗談めいた口調で、菊子は笑いながら昔話に興じている。 アルコールの力も手伝ってか、いつになく饒舌になり、二人の会話が弾んでいく。 「あー、そういえば振られたんだっけ? 男前だとかいう、年上の彼氏」 「私が振ってやったのー」 「まあ、そういうことにしておいてやるか」 拗ねたように頬を膨らます彼女が、ひどく幼く見える。 本当は一つ年上のはずなのに――その禁句を、尚孝は喉の奥へとしまいこんだ。 「ねえねえ、尚孝は? 片想い中の女の子がいるって言ってなかったっけ?」 「……誰から聞いたんだよ、それ」 寿命が一年、確実に縮まった。 菊子は黒目の大きな瞳をくるくると忙しなく動かし、首を傾げている。 「あれ、尚孝から聞いたんじゃなかったっけ?」 「お前には絶対、言ってない」 「そうかなー。尚孝から直接聞いた気がするんだけど」 ありえない。 そんなこと、あるはずがない。 当の本人に恋愛相談など――するわけがないのだから。 きっと中学時代の悪友・森園あたりが結婚式の二次会で、面白おかしく噂に興じたに違いない。尚孝は菊子に気取られぬよう、深々とため息をついた。 密かな片想い――しかし、それはもう三年前の話である。 今は毎日仕事が忙しく、恋愛に取られる時間は皆無だ。 彼女は特別に仲のいい『友人』の一人。 ――そう、特別。 「菊子、俺さ……あと三ヶ月したら海外勤務になるんだ」 「海外? へえ、そうなんだ。どこ?」 今日彼女と久し振りに会おうと尚孝が考えたのは、そういう理由からだった。 しばらく会うことはなくなる。だから――。 「東南アジア方面。たぶん五年は帰らない」 「ご、五年?」 菊子はそこですべてを悟ったらしかった。 どうして今夜、突然食事に誘われたのか――。 彼女は限界まで目を見開いて、驚きを隠せずに尚孝の顔をくい入るように見つめている。 そんな菊子を見て、尚孝は逆に安心感のようなものを覚えていた。 彼女の性格からして、軽く受け流されて、やたらと明るく励まされるのではないか――そんな想像もしていたのだ。 しかし。 目の前に座っている彼女の反応は、尚孝が最も欲していたものだった。 それが逆に、尚孝の気持ちを惑わせる結果となる。 「ハハ、今度会うときは完全三十路になってるな、お前。俺はかろうじて二十代だけど」 そんな尚孝のいつもの悪態に、菊子は何故か食いついてこようとしなかった。 「どうしたんだよ?」 「私、帰る」 菊子は態度を豹変させ、尚孝を置いて店を飛び出していった。 いったい、どうしたというのだろう。 尚孝は慌てて会計を済ませると、ほとんど手をつけていなかった料理にため息を残し、彼女を追いかけた。 菊子のことは、すぐにつかまえることができるはずだった。 彼女が走って逃げることはできないことを、尚孝はよく知っている。 昔事故で駄目にした膝はすでに完治し、普通の人間と変わりない生活は送れているが、それはあくまで普通に歩くことが出来るということ。 その証拠に、店を出てすぐ十数メートル先に彼女の背中をとらえることが出来た。 菊子は、尚孝から逃げようとはしていなかった。 むしろ、追いつかれるのを待っているかのように、その歩は弱々しい。 尚孝はすばやく駆け寄って、ためらうことなく菊子の肩に手をかけて、強引に振り向かせた。 「三十路って言ったことなら、謝るから。そんなに怒るなよ」 「私、イヤ」 人通りの少ない静かな裏路地に、菊子の消え入りそうな細い声がやけに響く。 「尚孝が遠くに行っちゃうの、イヤ」 「イヤって……そんな俺だって好きで行くわけじゃないし、仕事なんだから仕方ないだろ。それに今までだって結構離れてただろ?」 「日本と海外とじゃ違う!」 「そんな、俺たち別に恋人同士でもないのに――」 何をこだわっているのだろう。 あと一歩踏み込む勇気がないばかりに、いつも彼女の繊細な心を痛めつけてしまう。 彼女の心の声――。 言葉では伝えることのできない思いを、自分は誰よりも理解できるのに。 尚孝は菊子の細い腕を、つかまえて離さぬよう、しっかりと掴んだ。 「尚孝、離して!」 しかし彼女の抵抗は、言葉に反して弱々しいものだった。 「菊子は昔っからそうだ。思ってることを素直に言えないんだ」 「…………私はね」 彼女が溢れてくる。 想いがなけなしの言葉にのせられて、尚孝の心の奥まで深く染み込んでくる。 「尚孝しか、いないの。ずっとずっと、尚孝だけだったの」 「菊子……」 「尚孝にいつも側にいて欲しいの。尚孝とずっと一緒にいたいの」 困ったことになった――尚孝は思った。 残る理性を総動員して、なんとか欲求を抑える。 抱きたい。彼女のすべてを抱きとめたい。 菊子とは長い付き合いになるが、まるで初めて出会うような緊張を覚えていた。 「……私じゃ、駄目?」 駄目なことなどない。 むしろ願ってもないことだ。 しかし。 五年という年月を、乗り越える自信は――まるでない。 尚孝が答えを返せずにいると、菊子は変に吹っ切れたような明るい笑顔を作り、こちらへ向けてくる。 「そっか、そうだよねー。お酒飲んだから酔っ払っちゃってるんだ、私。気にしないでー、尚孝」 二人が一緒にいたら楽しい。 そして、彼女とは楽しいだけでなく痛みや悲しみを分け合うことができる――尚孝自身もそれは思っている。 ありったけの脳細胞を使って最善の道を模索する。 ――迷うことなんて、ないじゃないか。 「俺、決めた」 尚孝は菊子に言った。 「今度の土曜日、俺、お前の両親に挨拶しにいく」 「挨拶?」 「ずっと一緒にいるには、それしかない」 「それしかないって…………えっと、どういうこと?」 「親に挨拶っていったら、理由は一つしかないだろ」 尚孝の言わんとすることは、菊子に伝わったらしい。唖然とした表情で、尚孝の顔を見つめている。 「そ……そんな、だって尚孝、海外転勤が決まったんでしょ?」 「だから、転勤までのあと三ヶ月のうちに、『嶋口』菊子になって俺についてきてって、そう言ってるの」 「ちょっと待って? そんなこと言われたって、私だって仕事あるし……というかね、それ以前にあの、だって、付き合ってもないのにいきなり結婚なんて言われても――」 「付き合ってなくたって、俺は菊子のこと充分知ってる」 途惑いを隠せずにいる菊子に、尚孝はさらにたたみかける。 「決めて」 「そんな……簡単に決められない」 「今、決めて」 無謀なことを言っていると、尚孝も分かっている。 しかし、考える猶予を与えることは、それだけ彼女を悩ませてしまうことになる。それになんといっても、時間がないのである。 「五年経って、それでお互い一人だったらそのときは――なんて約束はしない。お互いのために」 彼女のために尚孝が用意した選択肢は、たったの二つ。 一緒にいたいのか、いたくないのか。 この先、二人一緒に生きていくのか、いかないのか――。 運命の瞬間は永遠にも感じられる。 「尚孝」 「なに?」 「尚孝――」 菊子は泣いていた。泣きながら、尚孝の名を繰り返し呼び続ける。 「ちゃんと覚えてたよ。責任とってやるって俺、確かに菊子に約束した」 やがて菊子はゆっくりと尚孝の肩に頬を寄せるようにして抱きつき、声を押し殺して泣き続けた。 その華奢な彼女の身体を、尚孝は遠慮がちに抱き締める。 ずっとずっと、こうしたかったのだ。 尚孝はおもむろに菊子の身体を引き剥がした。 涙を目に湛えたまま、菊子は驚きの表情を見せている。 尚孝は彼女の意志を慎重に確かめるようにして、優しくゆっくりと、その想いとともに唇を重ね合わせていった。
(了)