11.十五年前のあの日へ

 日の暮れた木枯らしの吹く街を、華音は息を切らせながら走っていた。
 目指す先は市民プラザという、多目的文化施設である。市立公会堂のような巨大施設ではないが、展示ホールや会議ホールなどの中規模施設が、一つの建物の中に集まっている。
 芹響の合わせの練習は、演奏会当日と前日のゲネプロ以外、市民プラザで行われている。
 今日も予定通り、練習が行われているはずだ。


 ようやく辿り着いた市民プラザのエントランスで、華音は帰り支度をすませた楽団員とすれ違った。
 ヴィオラの安西延彦だ。オーディションで採用された新入団員である。音大出たてで二十二歳と若く、華音との歳の差も一番少ない。そのせいか、安西はいつも友達感覚で華音に話しかけてくる。

「あ、華音サンお疲れー」

「うそ、もう終わっちゃったの?」

 華音はエントランスの壁にかけられた飾り時計に目をやった。
 針は午後四時二十分をさしている。予定では五時までだったはずだ。

「うん。今日は高野先生を交えてだったから、ほとんど通し稽古に近い状態だったんだよ。華音サン、土曜日なのに学校だったの?」

「うちの学校、来週から文化祭なの。最低でも一人一日準備の手伝いしなくちゃいけなくて……練習時間内に戻ってくるっていう条件で、鷹山さんの許可をもらったんだけど――」

 待ち構えているであろう悪魔の顔が、脳裏に浮かぶ。華音は半ばあきらめ顔で呟いた。

「きっと、機嫌損ねてるんだろうなあ……」

「監督、華音サンがいなくて寂しそうだったよ? 練習中もほとんど怒鳴ってなかったし、おとなしかった」

 安西青年の何気ないひと言に、華音は思わず動揺した。
 その心の内を悟られないように、必死に取り繕う。

「鷹山さんに限ってそんなことない、あるわけない。高野先生の手前、猫かぶってるんでしょ。どうせ今行けば、『君という人は、どうしてそんなに時間にルーズでいい加減なんだ? まったく、どういう神経してるんだよ』とか、澄ました顔で嫌味連発するに決まってるんだから――」

「フン、よく分かってるじゃないか。どういう神経してるんだろうね、君は?」

 背後から聞き覚えのある声が聞こえ、華音は飛び上がった。振り向きざまに見上げると、眉間にしわを寄せて腕組んで仁王立ちしている当の本人と目が合った。

「えっと……じゃあ俺はこれで。監督お先します、お疲れ様でした」

 安西青年は深々とお辞儀をし、逃げるようにしてその場を立ち去っていった。


 音楽監督として楽団員の前に立つときの鷹山は、わずかな妥協も許さぬほど厳格だ。そのため、若い団員からは距離を置かれている。馴れ合いの関係を避けるためか、楽団員たちと私的に食事をともにしたりすることはない。
 だからこそ。
 団員たちは華音をクッション材として重宝し、年下という気安さもあって皆親しげに話してくるのだ。
 当然そのことは、鷹山も承知しているはずだったが――。

 弁解をする間もなく、美しき悪魔はいっそう目線を凍りつかせ、白々しく言った。

「約束を守らないばかりか、捜しに来てみれば他の男と楽しそうに、しかも僕の悪口ね……」

「わ、悪口じゃないもん」

 予想通り、機嫌はすこぶる悪い。確かにこちらに非があるため、言い返すだけの勢いは出てこない。
 華音が黙ってしまうと、鷹山は眉間にしわを寄せ、さらににじり寄ってくる。

「猫かぶり? 澄ました顔で嫌味連発? 自分の遅刻を棚に上げて、随分な言い草だよね」

「だって、安西さんが――」

「んん? 安西君がなんだよ?」

 腕組みをし、大きな両の瞳をしっかりと華音の顔に向けて、威圧的な態度を崩そうとしない。
 どんな言い訳も認めず切り捨てるだけの臨戦体勢を、すでに整えてしまっている。

「だから、あの……」

「何なんだよ、はっきり言えよ」

「だから、今日の練習に私がいなくて鷹山さんが寂しそうだった……って、言うんだもん」

「僕が公私混同なんかするもんか。何だよ寂しそうって? まったく意味が分からないね。安西君の戯言を、君は簡単に信用したってわけか? ホントどうかしてるよ! 別に僕は寂しいなんてこれっぽっちも思っていなかったさ!」

 鷹山が猛然と喋り出したので、華音は唖然とその様子をまるで他人事のように眺めていた。
 天邪鬼もここまでくれば、逆に素直に感じるほどだ。

「寂しくなくても寂しくても……どっちだっていいですよ。だけど、ああでも言わなかったら、安西さんを誤魔化せないでしょ?」

 鷹山は観念したように目を瞑り、大きくため息をついた。とりあえずは納得したらしい。

「それより明日なんだけどさ、七時に僕の部屋まで迎えに来てくれる?」

「……え」

 華音は今まで、鷹山の住むという賃貸マンションを訪れたことはなかった。

「約束、まさか忘れているわけじゃないだろうね?」

「ちゃんと覚えてますけど……」

 反応できずに固まっている華音を見て、鷹山は勘違いをしたらしい。意地悪な微笑を向けて、試すように聞いてくる。

「早すぎて寝坊しそうだっていうなら、今晩から泊まり込んだっていいんだよ? そしたら優しく起こしてあげるから」

「な、な、なに馬鹿なこと言ってるんですか! そんなことできるわけないでしょ!」

「あ、起こす必要もないか。君を朝まで――寝かせないから」

 憂いを含んだ鷹山の流し目に、華音の身体は一気に硬直した。
 頭の中が真っ白になり、返す言葉もおぼつかない。どんどん体が熱くなって、華音にはもはやどうすることもできない。
 華音の様子の変化に、鷹山は驚いたように何度も瞳を瞬かせた。

「ちょっと、なんて反応してるんだよ君は……。耳まで真っ赤だよ?」

「だ……だって、鷹山さんが変なこと言うからでしょ!」

「そりゃそうだけど。なんだか、言った僕まで恥ずかしくなってくるじゃないか。さらりと流してくれよ」

 簡単にのせられ踊らされてしまった自分が、華音は無性に情けなかった。

「大人の冗談を真に受けるただの子供で、どうもスミマセンでした!!」

 華音はきびすを返し、恥ずかしさのあまり逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
 しかし当然、すぐに捕まってしまう。
 鷹山は背後から華音の腰を抱き寄せるようにして、迫ってきた。
 身体の左半分が温もりに包まれる。
 こんなところで――華音は慌てて周囲を見回した。目立った人影はないが、おそらく芹響の団員たちも何人かは建物の中にまだ残っているはずだ。いつここを通りかかるか分からない。
 幸い、そばには観葉植物がある。背後は壁。あとは運に任せるだけである。
 落ち着きなく身をよじる華音を、鷹山はなおもしっかりと引き寄せる。

「話はまだ終わってないよ。……それにしても、可愛い耳してる」

 鷹山は抱き締めたままの華音を、そのまま背後の壁に押しつけた。素早く唇を寄せ、華音の耳たぶに押しつける。
 慣れない感触に華音はわずかに身体を引き、口づけされた耳をとっさに手で覆った。
 こんな公共の場所で、逃げ道を断つようにして迫ってくる悪魔な音楽監督に、華音の心臓はすでに壊れる寸前だ。
 鷹山は身体を必要以上に押しつけたまま、華音の耳元でゆっくりと囁いた。

「いいかい、明日約束の時間を守れなかったら、そのときは――僕の要求に応えてもらうからね」

「よっ、よっ、欲求ーっ!?」

 恥ずかしさと驚きによるパニックで、華音は微妙な聞き違いをしてしまった。辺り中に響くような、素っ頓狂な大声を上げてしまう。
 鷹山は、面食らったように華音の身体を離し、一歩退いた。そして、ふざけるようにして華音の額を小突く。

「……可愛い耳だなんて誉めて損したよ。君の耳、クサってんじゃないのか? しかも頭悪すぎ。フン、別に僕は要求でも欲求でも、応えてくれるならどっちだって構わないけどね」

 華音は激しく首を横に振って、力強く否定した。

「七時ですね! 一分一秒遅れません!」

「ふふん。じゃあ、お互いの時計合わせようか。いま四時半ね。君の時計二分くらい進んでるんじゃない? 僕のほうに合わせてよ」

 華音は鷹山に言われるがまま、自分の腕時計の針を遅らせた。

 その様子を見届けると、鷹山は再び厳しい顔つきに戻った。

「僕さ、これから新しいホールの視察に行ってくるから。そのあとは、オーナーが新しく雇った運営スタッフとのミーティングに出席するから、君はここで帰ってもいいよ」

 おそらく午後九時を過ぎるだろう。ここ一週間はほとんどそんな調子だ。

「鷹山さん、なんだか忙しそう……」

「そうだよ、君なんかよりやたらと働いてるんだから」

「私にできること、ない?」

 あるならとっくに言いつられているはずだが、念のために聞いてみる。少しでも鷹山の負担を減らすことができたら――という一心からである。

「して欲しいことはたくさんあるけどね。でも、君に無理強いはできないから、言わない」

「そんな、言ってくれなくちゃ分からないでしょ?」

 口に出すか出さないか、鷹山は迷っている。
 わずかな沈黙が二人を包んだ。

「じゃあ……一晩中、僕のそばにいて」

 まただ――。
 華音は同じ失敗を繰り返さぬように、平静を装いながら答えた。

「学校の行事以外での外泊は、ダメだって言われてるから、それは無理です」

 嘘ではなかった。外泊はもちろん夜遊びもしてはならないと祖父の英輔に厳しく言いつけられ、それを富士川祥が――忠実に守らせていた。
 しかし、祖父が他界し富士川もそばを離れてしまった今、そんな理由付けなどはもう無意味であるはずなのに――。
 そして。
 自分の発言を悔いるような鷹山の表情に、自分の答えが彼を失望させてしまったのだ、と華音は感じた。
 長い長い憂いに満ちたため息のあと、鷹山は嫌味を込めた口調でよどみなく言い切った。

「ほんの冗談だよ。それにしても、君が簡単に男の誘いにのらないガードの堅いお嬢様にちゃーんと育ってくれたようで嬉しいよ。本当に、ね。じゃあ僕、そろそろ行くから」

 華音は返事もできずに、練習ホールのほうへと戻っていく鷹山の背中をひとり見送った。


 いつまで経っても、動悸が収まらない。
 華音の頭の中で、鷹山の囁く声が反芻する。

【一晩中、僕のそばにいて】

 冗談と本気の区別がつかない。ほんの冗談だという鷹山の優しさゆえのはぐらかしも、一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、簡単に冗談で片付けられない領域へと追いやられていく。
 一晩中。一晩中、そばに。
 いったいどうしたらいいのか、華音はまったく分からなかった。
 きっと鷹山は、今まで付き合ってきた女性たちとは、夜をともにするような関係を築いていたに違いない。これまでの自分への接しかたで、それは簡単に想像がつく。
 付き合うからには、そういう深い関係を望んでいる――おそらく。いや、確実に。
 鷹山の要求を受け入れずにいれば彼を失望させることになり、いつか自分のもとから離れていってしまうのでは――そんな妄想が華音を苦しめる。

 ――もっともっと、大人にならなくちゃ……ダメなんだ、私。

 廊下の真ん中で呆然と立ち尽くしていると、華音は背後から女性に声をかけられた。

「待って、華音さん」

 藤堂あかりだった。
 柔らかなファーを襟にまとったアイボリーのコートにスエードの手袋。手にはヴァイオリンケースを携えている。
 辺りに広がるムスクの香り。
 あかりは芯の通った眼差しを、しっかりと華音に向けている。

「監督から何かを?」

 いつから見られていたのだろう――華音は愕然となった。
 先程は周囲に人影は見当たらなかった。見られていたとしてもおそらく遠目。ハッキリとは分からなかったはずだ。
 きっとカマをかけているのだ――華音は努めて冷静を装って、あかりに向き直った。

「……いえ、何でもありません」

「本当にこのままで、いいんですか?」

「どうして、そんなことを言うんですか?」

 彼女が何を言いたいのか、華音には何となく察しがついた。しかし、あえてはぐらかすように聞き返す。
 あかりは続けた。

「……分かりません。監督は非常に華音さんのことを気に入っていらっしゃるようですけど――」

 言葉を濁してはいるが、きっと気づいている。

 音楽監督の鷹山が、華音を部下として重用しているだけではない、ということを――。

「華音さんのことが心配なんです、とても。私がこの楽団に留まっているのは、富士川さんがいつかこの楽団に帰ってきてくれることを願って、ただそれだけなんです。……私があの夜、華音さんに言ったことを覚えていらっしゃいますか?」

 あの夜。
 鷹山の腕を刺した、あの日の夜だ。
 あかりは忌まわしき惨劇の、唯一の目撃者である。

「私は、富士川さんの帰る場所を守っているだけなんです。芹沢先生の名ばかりのお弟子さんの手から――」

「鷹山さんは鷹山さんなりに精一杯楽団を守ろうとしています。それに名ばかりだなんて、決してそんなことありません」

 あかりは穏やかに頷き、諦めとも取れるため息をひとつついた。この数ヶ月の間に、鷹山の実力は、あかりにも認めるところがあったはずである。

「富士川さんは芹響になくてはならない人だって、私は今でも思っています。……監督は富士川さんとは違います。大きな大きな心の闇を抱えている――」

 過去の出来事をあかりは知らないはずである。鷹山が芹沢家の人間であることも、華音の実の兄であることも――。
 しかし。
 あかりにはそれだけではない何かが見えているのでは――華音は漠然とそう感じた。

「私でも分かるくらいですから、華音さんにはきっと、もっといろいろなことが見えているのかもしれません」

 彼女の言う、鷹山の大きな心の闇。
 その存在は、確かに否定できないことだった。

 兄弟子の富士川に対する並々ならぬ敵愾心を、華音は何度となく見せつけられてきた。
 初めて鷹山にキスをされたときも、富士川への嫉妬に狂ったように、力ずくで押さえ込まれ――そこには恐怖しかなかった。

 しかし、事情をすべて知った今。
 鷹山に対してあるのは、すべてを捧げてもいいと思えるほどの愛情だけだ。

「鷹山さんは、私を必要としてくれているんです。でも、祥ちゃんは私の力なんて必要じゃないんです。一人で何でもやっちゃうから……」

「必要とされるって、とても嬉しいことだもの。それは分かるわ。でも――いいえ……私が口を挟むことではなかったですね」

 あかりはそこまで言うと、簡単に引き下がった。一礼をして、そのまま華音とすれ違うようにして過ぎ去っていく。


 あかりの言葉に、釈然としないモヤモヤ感が残された。
 富士川と過ごした日々は、今では遠き日の思い出だ。
 こうなることは運命だったのだ――華音は自分自身を納得させるよう、何度も何度も己の心に言い聞かせた。



 次の日の朝、華音は約束通り鷹山の住むマンションへと向かった。
 鷹山の住まいはマンションというよりもこぎれいなアパートに近い、三階建ての建物だった。部屋は敷地の奥、一階の右端に位置している。
 念のため、建物の名前と部屋番号が書かれた紙を取り出し、間違っていないことを慎重に確かめた。
 次に、昨日鷹山と合わせた腕時計の盤面をチェックする――完璧だ。

 華音はドアの前で数十秒待ち、『101号』と書かれたプレートの下にあるインターホンのボタンを、七時ちょうどに合わせて押した。
 すぐに人の気配がする。鍵を外す音がし、ドアノブが回った。
 ゆっくりと開いたドアの合間から、鷹山の姿が現れた。寝起きのままの姿ではなく、きちんと着替えている。

「……おはよう。寒いから中へどうぞ」

「ほら! 七時ピッタリです」
 華音は得意気に、左腕にはめられた腕時計を鷹山の目の前に見せつけた。
 しかし鷹山は無言のまま、携帯を取り出して117をコールする。そして携帯を華音の耳に押しつけた。

『七時二分ちょうどをお報せいたします……ピ……ピ…………』

「はい遅刻、残念だね」

 昨日、鷹山に言われるがまま、華音は時計を遅らせていた。そして今、自分の時計が遅れているということは――。

 つまり、もともと時計は進んでなどいなかったのだ。

 それなのに鷹山はそんな細工までして、初めから華音に自分の言うことを聞かせようという魂胆だったに違いない。

「というわけで、君は僕の要求を聞くっていう約束だよね?」

「人のこと、騙したりして!」

 目の前で不敵な笑みを浮かべる悪魔に、華音はまんまと嵌められたのだ。
 情けない、あまりにも。


 鷹山のあとに続くようにして、華音はおずおずと部屋に上がった。
 辺りを見回し、そして感じる違和感――。

「鷹山さんって、意外と部屋汚いですね……」

「失礼だな、汚くはないよ。散らかっているだけだ。欲しいものがいつも手に届くところにないと、不安なんだよ」

 その説明だけで、華音は妙に納得させられた。

「それに今は、掃除してくれる人がいないから」

 その言い回しに、わずかな含みを感じ取った。部屋の掃除をしてくれていたのは、おそらく女性だろう。


 壁際には大きな本棚。たくさんの本がつまっている。
 ざっと眺めると、自分が読んだことのある本もいくつか見つけることができた。いつも鷹山はここで読みたい本を選びカバンに入れ、持ち歩いているのだろう。
 本棚の隅に、ガラスの写真立てが置かれている。華音はそれに目をとめた。
 幼い少年が、母親らしき女性の胸に抱かれた赤ちゃんの頬に、笑いながらキスをしている。微笑ましいシーンだ。
 華音の背後から、鷹山が簡単に説明をしてくる。

「赤ちゃんは君、君を抱いている手はお母さん、チューしてるのは僕。写真を撮ったのはお父さん」

「へえ。私にもこんな普通の写真があるんだ……」

 もちろん華音は覚えていない。

「見てみたい? それなら、もっとあるよ」

「もっと? 鷹山さん、たくさん持ってるの?」

「十五年前から一枚も増えてないけど。本棚の一番下に、白と青のアルバムが並んでるだろ。青いほうがそうだから」

 華音は言われるがままに青いアルバムを手にとり、すすけた表紙をめくった。
 そこに登場するのは若い大人の男と女、そして男の子と赤ちゃんだ。
 鷹山によく似た綺麗な女性は、母親。
 自分によく似た線の細い男性は、父親。
 誕生日だったり遊園地だったり幼稚園だったりピアノの発表会だったり――その写真の構図は、ありふれたものばかりだ。それ以外、何も感想は出てこない。

「なんか、普通の家族みたい」

「当たり前じゃないか」

「こっちのは?」

 華音は青いアルバムの隣にあった白いアルバムに手を伸ばした。
 こちらはほとんど開いていないのだろう。表紙の質感はまだ新しい。

「……それは僕の父親に無理矢理持たされたアルバムだよ。見なくていいよ、恥ずかしいから」

「すごい。ちゃんと見出しまでついてる! 息子、小学校卒業。だって」

 ほとんどが中学、高校と多感な少年時代の鷹山だ。自分の知らない時代の鷹山の姿を垣間見ることができて、華音はつい微笑んでしまう。
 特に高校時代のものは、今の自分の歳と変わらないため、胸をときめかせながら一枚一枚、丁寧に見ていく。

「あ、嘘!? この女神っぽい格好してるの、鷹山さん!? やだ、似合いすぎ!!」

「……文化祭で、無理矢理女装させられたんだ。一生の不覚だよ」

 同級生たちの気持ちがよく分かる気がした。鷹山は無理矢理にでも女装させる価値あり、である。
 鷹山は機嫌を損ねたのか、華音からアルバムを取り上げ、それを元あった場所へと収めた。

「君の小さい頃からの写真も見たいな。今度アルバム見せてよ」

「私の?」

 アルバムは確かに存在するが、普通の家族写真はほとんどない。高野和久が気ままに写してくれた富士川との日常風景ばかりである。そんなものを到底、鷹山に見せられるはずがない。
 華音はとっさに嘘をついた。

「写真、ほとんどないの。おじいちゃん、そんなに私に興味なかったみたいだし。七五三のときに写真館で撮ったのなら、乾さんに聞けばどこかに……」

「それならもう見たよ」

「え? いつ?」

「英輔先生は君のことをちゃんと気にかけていたはずだよ。書斎のデスクには一つだけ鍵のついた引き出しがあってね、大切なものはそこにしまっておいてたらしい。鍵は乾さんが僕に託してくれた。その中に、君の写真と、そして父さんの写真もね。それからあの男の、高校時代の成績表やら音大の合格通知書やら……ホント、たいした可愛がられようだよね」

 このまま富士川の話を長引かせると、どんどん機嫌を損ねてしまう――華音は不安に駆られた。
 鷹山も気まずいと感じたのか、ため息をひとつつき、さらりと話題を変えた。

「そうそう、僕の要望を何でも聞いてくれるっていう話だけど」

「ああ……うん」

 いつになく真剣な鷹山の表情に、華音は身構えた。
 きっと、来る。
 続く鷹山の言葉を、華音はじっと待った。
 わずかに震える鷹山の声――。

「僕ね、本当は……君と一緒に暮らしたいんだ、ここで」

 華音は驚きのあまり、言葉を失った。
 それは華音の予想をはるか上回るものだった。鷹山が好んでよく口にしている『ご褒美』というレベルではない。

 一緒に暮らしたい。
 君と、ここで。

 なんと答えるべきなのか、華音は困った。

「えっと、あの……鷹山さんと二人で?」

「分かってるよ、学校の行事以外での外泊はダメなんだろう? いちいち本気にしなくてもいいよ。軽い冗談だから」

 昨日と同じ展開である。

 このままでは駄目だ――華音は瞬間に悟った。


 華音はくるりと鷹山に背を向けた。気持ちを落ち着けるため、深呼吸を何度か繰り返す。

「あのね、こけら落としが終わってから……でも、いい?」

「え……」

 鷹山の絶句したような声を、華音は背に受け止める。

「今はほら、高野先生ソロ控えてるし、余計な心配させたくないから。ひょっとしたら、春になってからとかになるかもしれないけど」

「ちゃんと僕のほうを向いて言ってよ。本当に?」

 鷹山は力任せに華音を引き寄せ、振り向かせた。
 大きな琥珀色の瞳に、今にも吸い込まれてしまいそうだ。

「本当に、僕と一緒に暮らしてくれるの? 僕が言ってる意味、ちゃんと分かってる?」

 何度も確かめるように、鷹山は問う。
 勢いに押されるようにして、華音は弱々しく頷いた。

 抱き締められる――そう感じた瞬間、予想に反して鷹山は、華音を押し退けるようにして離れていく。

「今日でちょうどまる十五年――君を失いそして再び戻るまで……長かった、とても」

 鷹山の真意が、華音には読み取ることができなかった。
 一緒に暮らすという選択が、恋人同士としてか、それとも二人きりの兄妹としてなのか――。
 おそらく鷹山も、その線引きが曖昧だと感じているに違いない。
 しかし今の華音にとっては、別にどちらでも構わなかった。

「でも、私が家を出たら、高野先生や乾さんに咎められないかな?」

「咎めたりするもんか。和久さんは元の暮らしに戻ればいいだけだし、芹沢の家は今までどおり僕たちの仕事場だ。乾さんにもこれまでと変わりなく働いてもらうさ」

 もちろん、行く末に限りなく不安もつきまとっている。
 自分の選んだ選択肢は、事実を知るものにとっては決して歓迎されることではないのだから。
 そう、問題はたった一人。

「赤城さん、……たぶんいい顔しないよね」

「僕たちのことを勘繰っているからね、油断ができないけど――オーナーにさえばれなければ、それでいいんだよ。最後まで、シラを切り通せばいんだから」

 ばれなければいい。
 ばれてしまったらいけない関係――でも、二人が黙ってさえいれば。

【君には親兄弟の記憶がない、鷹山君には記憶がある。それだけのことだ】

 ふと。オーナー赤城の言葉が、華音の脳裏を過った。
 稲葉努とコンタクトをとるために、オーナーの赤城と二人でパーティーへ出かけたときのことである。
 会場に向かうBMWの車中で、赤城に言われた言葉が次々と鮮明に浮かび上がってくる。

【彼は君以上に分かっているはずなんだが――その罪の重さを】

 もう、綺麗事など聞きたくない。華音はすべてを振り払うようにして、鷹山の顔をしっかりと見つめた。
 お互いを受け入れることを約束した、慈しむような眼差しがそこにはあった。

「さあ、それじゃそろそろ出かけようか。僕たちのお父さんとお母さんに会いにね。僕たちがくるのをずっと待っているはずだよ――十五年間、ずっと」

 鷹山は照れたように笑って、華音の身体にゆるくまとわりつくように抱きつく。顔を見上げて「うん」と返事した華音の唇に、鷹山の唇がゆっくりと重ねられた。

 罪。これは罪。
 十五年の歳月が生み出した、決して償うことのできない罪。



 マンションの裏手に見覚えのある車が停まっていた。
 赤い国産の軽自動車だ。

「美濃部君に今日一日、貸してもらったんだ」

 鷹山はキーホルダーがついた車のキーを軽く上に投げ上げ、落ちてきたところを器用に空中キャッチした。
 さり気ないふうを装って格好つけたがっているのだ――華音は可笑しさを懸命にこらえながら、鷹山の表情をうかがう。
 澄ました綺麗な顔が、相変わらずそこにあった。
 そのままじっと食い入るように見つめていると、鷹山がそれに気づき、わずかに首を傾げて聞いてくる。

「どうしたの、芹沢さん?」

「鷹山さんって、車の免許持ってるの?」

「実家に帰ったときしか運転しないから、ペーパードライバーに近いんだけどね。まあ、北海道の田舎じゃぶつかる物もないから、なんとかなってるけど」

 鷹山の運転する車に乗せてもらえる――華音の気分は一気に高揚した。
 一緒に出かけると誘われたときは、公共の交通機関を使うものだとばかり思っていた。これは予想外の展開だ。
 鷹山の知られざる一面を見られるのが、華音は素直に嬉しかった。

「あ、これギアの場所、実家の車と違う。サイドブレーキの解除はどうするんだろ?」

 しかし、その運転技術に関してはかなりの期待薄だ。美濃部青年の車の運転席で、勝手が分からず騒ぎ立てる鷹山が、華音の目にはなんとも滑稽に映る。
 鷹山は、こと音楽の分野に関しては、他の若手の追随を許さぬほど才能も実力もあふれているというのに、ひとたび仕事を離れると一人で満足にコーヒーを淹れられなかったり、部屋の片づけが苦手だったり――不器用な一面をさらしている。
 しかしそれが逆に、どこか放っておけない気持ちにさせられてしまい、決してマイナス要素にはならないのだから、不思議なものである。

「僕ね、自慢じゃないけど教習所に三度通ったんだよね」

 シートベルトを着けるためにお互い身体をよじる。前髪が触れ合う至近距離で、鷹山はそんなことを呟いた。

「通い始めたあとにすぐにウィーンへ留学することになって、一時帰国したときに一ヶ月集中コースみたいなのに申し込んだけど、途中で飽きたから止めた。でも、さすがに父親に嘆かれてさ、免許取るまでウィーンへ戻らせないとか意味不明なこと言って、大喧嘩になって」

「……で?」

「お前は口ばっかり達者でどうしようもないロクデナシだ、って父親に殴られた。お陰で、今こうして僕は自動車の普通免許を所持してる」

 鷹山が言う『父親』とは、富良野にいるという『育ての父』のことだろうと、華音はすぐに察した。
 先程鷹山の部屋の中で見つけたアルバム写真のことといい、おそらく鷹山は養父といい関係を築いてきたに違いない。殴られたというのはおそらく鷹山が大袈裟に言っているだけで、本当に鷹山のことを理解しているからこその、遠慮のない親子のやり取りだと華音には聞いて取れた。
 本人がそれを意識しているかどうかは不明だが――。

「僕、運転で精一杯だからちゃんとナビしてね」

 手渡されたのは、いつか鷹山が書斎で見ていたことのある地図帳だった。ページのひとつに折り目がつけられている。

 ――前からずっと、考えてたのかな。

 仕事の合間にこの地図を眺め、ある場所を。
 十五年前のとある事故現場を、鷹山はずっと探していた。

「ええと、どこを通っていくんですか」

「とりあえず、花屋から」

 華音は言われるがまま、一番近くの花屋への道筋を説明した。


 二人は街角のフラワーショップを訪れた。郊外型の店舗らしいゆったりとした空間だ。
 目眩く花の芳香に満ちた店内をゆっくりと物色し、やがて鷹山はあるピンク色の花を指差した。

「これがいい。好きな花のほうがきっと喜んでくれる」

「アルストロメリア?」

 華音がそう呟くと、鷹山はすぐさま振り返り、大きな瞳を数度瞬かせた。

「そう。よく知ってたね、この花の名前」

 いつものような小馬鹿にしたような口ぶりではなかった。珍しく、素直に感心してみせている。

「この花、好きだったのはお母さんだった人じゃなくて、お父さんだった人?」

「そうだけど……どうして?」

 むせ返るような花の匂いが、見つめ合う二人を幾重にも包み込む。
 華音はゆっくりと口を開いた。

「アルストロメリアは、おばあちゃんがとても好きだったから。そうなのかな……って」

 瞬間。
 鷹山の綺麗な顔がわずかに歪んだ。かすかに眉間にしわを寄せ、空を仰ぎ見るようにして深いため息を漏らす。

「君のおばあさんと僕のお父さんは、本当の『母と息子』なんだな」

 気に障ったのだ――華音は考えなしに言ってしまったことをひたすら悔いた。
 鷹山が十五年前に芹沢家で受けた仕打ちを思えば、彼の前で祖父母の話をするのは禁句であることくらい、分かっていたはずなのに。
 すぐに鷹山は花屋の店員を呼び止め、アルストロメリアの花束を注文した。
 店員の作業する様子をじっと眺めながら、鷹山は華音にそっと耳打ちした。

「僕と君は遠く離れていたけど、こうやって同じ花の名前を知っていた。何だかとても変な感じがするな」

 鷹山が見せた微笑みは、哀しさと優しさとが交じり合い、やがて一つになっていく。

「包装は紙にしてください――早く土に還るように」

 鷹山は花屋の店員に、ひとこと付け加えるようにして告げた。


 車の後部座席は花束の香りで一杯だった。
 心配していた鷹山の運転技術も、教習所に三度も通ったという割にはまともだった。三度も通ったからこそ――なのかもしれないが。

「鷹山さん。何か音楽とか、聴かないの?」

「聴きたいの? 美濃部君、なんか持ってないのかな。適当にその辺探してみて」

「……普通、用意しておくものなんじゃないの?」

「普通? なに、普通って」

 やたらと鷹山は食いついてくる。下手なことを言うとすぐに足元をすくわれそうだ。
 華音は当たり障りのないことを適当に取り繕った。

「だから、ドライブデートするときには、女の子に聴かせたい曲を前もってセッティングしておく――とか」

「へえ……それ、誰のことを言ってるんだよ?」

 鷹山の勘繰りは執拗だ。愛ゆえの束縛もここまで来ると一種の病気である。
 しかしその対応も、今では手馴れたもの。華音はしつこく食いつく鷹山をあっさり切り捨てた。

「世間一般の常識の話です。いちいち深読みしないでください」

 しかし、その態度が逆に鷹山の好奇心に火をつけたようだ。

「だってさ、そんなのつまらないだろう? いちいちドライブコースだの聴く音楽だの決めて、その通りに進めるだけだなんて、ドキドキなにもあったもんじゃない。そこに音楽がなかったら自分で歌えばいい。もし道が行き止まりだったら引き返して来ればいい。そうさ、僕は予期せぬハプニングが大好きだ!」

 いつもの大袈裟な戯言が始まった――華音は深々とため息をついた。

「必要以上のドキドキなんか、いりません。それよりだったら、退屈なままでいいもん」

「あ、そう。とりあえず、地図だけはしっかり見てて」


 やがて車は県境に程近い山野に差し掛かった。道幅は広く視界は開けている。
 華音は再び、鷹山が折り目をつけたページに視線を落とした。
 この先には大きな湖がある。湖畔に沿うようにして道は伸び、さらにその先は隣県の都市へと続いている。
 目的地は現在地よりさほど遠くないのだ――華音は何となく思った。

 運転席の鷹山は先程から黙ったままだ。運転にもだいぶ慣れてきたらしい。ときおり景色を眺めながら、ハンドルを緩やかに動かしている。

「よそ見しないでください、危ないから」

「君がさっきから黙ってるから、退屈なんだよ。何か喋って」

「運転の邪魔したらいけないと思って。じゃあ、ちょっと聞いてもいいですか?」

 いいよ、と鷹山の軽い返事が返ってくる。

「お父さんとお母さんだった人の事故って、どんなのだったの?」

「対向車が中央線をはみ出して突っ込んできたらしい。正面衝突で、即死状態だったって――」

 鷹山は一瞬だけ、助手席の華音を振り返った。平然としている華音の表情を確認し、すぐにフロントガラスへと視線を戻す。

「僕と君は、その頃住んでいたアパートのお隣さんちに預けられてた。日本初演の交響曲かなにかをね、二人で聴きに行った帰りだったらしい。演奏会に小さい子供を連れて行くのはマナー違反だからね。大きな演奏会だと託児スペースを用意してくれるところもあるけど、きっとそのときはそれが無かったんだろうな」

 そのまま車内は沈黙状態となった。華音はそれ以上話を聞く気にもなれず、助手席側の窓に張りつくようにして、美しく色づいた白樺の黄葉を眺めていた。
 しばらくして、鷹山が沈黙を破った。

「二日後、僕たちを迎えにきたのは……乾さんだった」

 鷹山は芹沢家の執事の名を口にした。

「実は乾さんはそれまで何度か、お父さんを訪ねてアパートまで来たことがあったんだよ。英輔先生と疎遠になってからもね、いろいろ心配してたんだろうな」

 華音はそんな鷹山の説明に、ひどく違和感を覚えた。
 実の祖父である芹沢英輔のことは、鷹山自身にとってはヴァイオリンの師匠という位置付けでしかない。もちろん、華音の祖父母が自分の父親の両親であることは、頭では理解しているはずだった。
 それは華音だって同じこと――鷹山の実の父親が、祖父母の一人息子であることはとりあえず、分かっている。
 そう。
 お互いが同じ祖父母と両親を持ちながら、いつまで経っても重なり合わないという違和感が、二人にはつきまとっている。

「それからさらに二日後だ、僕と君が離れ離れになったのは――」


 やがて二人が乗った車は、鷹山があらかじめ印をつけていた辺りへ到着した。
 湖に臨む小さな展望台だ。高台になっていて、下は緩やかな崖になっている。
 ここはドライブの立ち寄りポイントらしかった。混雑はしていないが、他にも数台の車が止まっている。

「この辺なのかな……ハッキリとは分からないから。さあ、行こうか」

「紅葉ももう終わり頃だけど、まだ黄色が綺麗ー」

 華音は車から降り軽く伸びをすると、わずかにはしゃいでみせた。鷹山とこうして普通のデートをできることが、とにかく嬉しくてたまらなかったのである。
 紙で包装された花束を手に、ふらりと展望台の駐車場を歩き出す鷹山の背中を、華音は嬉々として追いかけた。

「天気が良くて、良かったね」

 いっこうに返事がない。むしろ華音を振り払おうとするかのように、鷹山はその歩を早めていく。

「もうちょっとゆっくり歩いてよ、もう」

 そんな華音の懇願に耳を貸すことなく、鷹山はどんどん一人で先を行ってしまう。
 ようやく追いついたときには、展望台の広場まで辿り着いていた。

「ねえ、どうしたの鷹山さん――」

 華音は言葉を失った。
 鷹山の大きな瞳から涙があふれ、頬を伝っていくのが見えた。
 華音はそれ以上声も出せず、じっと鷹山の横顔を見つめていた。

「君の分の涙だ。どうしてこんな……この十五年という歳月が、僕たちを狂わせてしまった」

 ――僕たちを狂わせた、永き歳月。

「肉親のために、君はもはや泣くことさえできない。僕たちを本当に愛してくれていた父と母も、君にとっては『遠い昔にここで死んだ知らない誰か』なんだ」

 反論できなかった。確かに鷹山の言う通りなのだ。

「あの……ゴメンなさい」

 鷹山は手の甲で涙を拭った。

「いや、君のせいじゃない。僕があのとき、君を手離してしまったから――」

「それは仕方なかったんでしょ? 鷹山さんのせいなんかじゃない」

 わずか九歳の少年に、赤ちゃんだった幼い妹をどうにかすることなど、不可能だったのだ。

「僕の顔は芹沢の名に相応しくない、って」

 引き取ることを拒まれて。自分の身すら守ってくれる人がいないという状況で――。

「綺麗? 美しい? 整ってる? ハッ、馬鹿馬鹿しい! そんなの褒め言葉でもなんでもない! この顔のお陰で僕はすべてを失ったっていうのに。芹沢の姓を名乗る資格すらね!」

「……綺麗だったお母さんに似てるんでしょ。よかったじゃない」

 華音は鷹山の背中に軽く抱きついた。柔らかな温もりがコートの生地を通して伝わってくる。
 鷹山が抱える大きな心の闇を受け止められるのは自分しかいない――華音はそれが使命と自負し始めていた。

「それに……性格が悪いんだから、見た目くらい綺麗じゃないと、いいトコ無しだもん」

 鷹山は華音の抱擁を解くようにして振り返り、向き直った。柄にもなく面食らったような表情を見せている。

「君という人は……なんて言い草だ!」

「惚れ直した?」

「……馬っ鹿じゃないの。どうすればこの状況でそんなセリフが出てくるんだよ」

 そう言って鷹山は、花束で華音の頭を軽く叩いた。
 あふれるアルストロメリアの香りと、照れたような鷹山の笑顔に、華音の気持ちはようやく和らいだ。
 でも漠然と。
 彼をこのまま愛していてはいけないという気持ちが、華音の中に少しずつ湧いてきているのもまた事実だった。


 鷹山は目を瞑り黙祷すると、手にしていた花束を展望台の上から下の崖に向かって投げ落とした。
 湖を一望でき、素晴らしく眺めがいい。湖面は空の青を映し、木々の黄色とのコントラストが鮮やかだ。
 二人は展望台のベンチに並ぶようにして腰かけた。
 晩秋の冴えるような風に吹かれながら、しばらくの間黙って湖を眺めていた。

 突然、鷹山が奇妙なことを言い出した。

「僕が富士川さんの顔にコーヒーをかけてやったことを覚えているよな?」

 華音は素直に頷いた。
 もちろん、覚えている。
 実際にその現場を見ていたわけではなかったが、心無いヒトコトで大喧嘩へと発展させてしまったことは、まだ記憶に新しい。
 しかし、今なぜその話題を蒸し返すのだろうか。
 鷹山の憂いに満ちた瞳をじっと見つめ、華音は続く言葉を待った。

「君を困らせるようなことをしたら、絶対に許さない――そう言われたんだ」

「――う……そ?」

 場景がリアルに浮かび上がってくる。

 よく知っている市立公会堂のロビーで。
 たくさんの来場客の合間を縫うようにして、二人の弟子が互いに近づいていき、言葉を交わした。

 居合わせた美濃部青年の説明によれば、富士川が何かひとこと言ったあと、それに対し鷹山が件のコトに及んだ――と。

【華音ちゃんを困らせるような真似をしたら、絶対に許さないからな?】

 華音は愕然となった。
 きっと、言う。自分がよく知っている富士川祥なら、間違いなく言う。
 そして、鷹山は手にしていたカップコーヒーの中身を、兄弟子の顔にかけた。

 ――なんてことを。

「英輔先生の名を汚すようなことをしたら……そう言われるのなら、言い返すだけで終わったはずなのに」

 動悸が止まらなかった。
 何となくは分かっていた。しかし、こんなにもはっきりと認識させられたのは初めてのことだった。

「三ヶ月ぶりにまともに顔を合わせて、最初に出る言葉がそれか? 他にもっと言うことがあるだろう?」

 自分のせいなのだ。
 富士川と鷹山がお互いを激しく嫌悪するのは、華音自身の存在意義にあるのだ、と。

 兄であって、兄ではない。
 兄ではないけど、兄である。

 華音の中でねじれているものが、周囲を取り巻く人々を苦しめている。

「なんだよ、絶対許さないって。どの口がそれを言うんだよ?」

「だって祥ちゃんは……」

「――だって、何?」

 鷹山は表情を硬化させた。
 ここで富士川のことをかばってしまったら、もう取り返しがつかない。かといって鷹山に同調することもできない。
 華音は身じろぎもせず、考えを必死に巡らせた。

「……祥ちゃんは本当のこと、何も知らないから」

「僕が英輔先生の孫で、君の本当の兄だってことを?」

「そう、知らない」

「しかも、お互いそれを承知で付き合ってることも?」

「……」

 承知とは言っても、華音にとってはうわべだけの認識でしかない。

「あの男が本当に大切にしてるものがね、見えたんだよ。芹沢という名でもなく、芹響でもなく……」

 鷹山が何を言いたいのか、華音は理解した。
 そうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。
 富士川祥が本当に大切にしているものが、鷹山の言う通りだとするなら。
 確かに、大切にされていたという自覚は華音にもあった。

【――華音ちゃん】

 不意にどこからか、富士川が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 もう過去の話。
 すべては過ぎ去ってしまった時間なのだ。

「富士川さんと君はどういう関係なんだ?」

「どういうって、別に」

 華音は言葉を濁した。

「隠さず言えよ」

「別に……隠すことなんかないけど」

 嫌な流れだ。鷹山の目が凍りついている。
 華音は半ば自棄になりながら、鷹山に訴えた。

「だから。祥ちゃんはおじいちゃんのお気に入りで、私はおじいちゃんの孫だったから、いろいろと面倒を見てくれていた……それは鷹山さんだって知ってるでしょ?」

「知ってるよ。でも僕が求めているのはそんな上っ面の答えじゃない」

 鷹山は大きな瞳をゆっくりと訝しげに瞬かせながら、毅然と言い切った。

「僕が知らないことを、富士川さんが知っているのか、ってことだよ」

「それは……しょうがないじゃない。祥ちゃんとは小さいときからずっと一緒にいたし……鷹山さんとはまだ半年――」

「それは違うよ」

 鷹山は首を横に振った。

「僕は君のことたくさん知ってる。君が母さんのお腹の中にいた頃から知ってる。君が生まれた日のことだって、ちゃんと覚えてる。でも、何にも知らない。あの家でどんなものを食べどんなことを学び、笑い、泣き、怒り、そして喜び――そんな君の姿は僕じゃなくて、あの男が持っている」

 何も間違ったことは言っていない。むしろ的確だ。

「悔しいんだよ。本当ならすべて僕のものなのに――」

 華音はじっと、鷹山の話に耳を傾けていた。
 もはや返す言葉も見つからない。頭の中でいろいろなことが渦巻いて、まとまらない。

「あの男と君には十数年という共有した時間がある。僕と君にはたった一年しかない。その一年も、君の記憶の中には僕はいない」

 そう。
 鷹山は半年前に出会ったばかりの、他人でしかない。
 記憶なんか、存在しない。
 そこにあるものは――。

「あの男はいったい何なんだよ」

 分からない。そんなことを聞かれても。

「――僕は君の、……何なんだよ」

 鷹山が華音に対してどういう答えを求めているのか、まるで予想がつかなかった。

Posted by 千緋呂