はっぴーになるひと
『嶋口。俺さ、結婚するから』 友人・森園勇斗の突然の発表に、尚孝は思わず受話器を落としてしまいそうになった。 エイプリル・フールはもう過ぎている。つまり、冗談ではないらしい。 しかし、尚孝はまだ状況についていけていない。汗で滑る電話の受話器を握り直し、事の次第を問いただす。 「だって、俺たちまだ二十二だろ? 何で……」 『仕方ねーだろ、出来ちゃったし』 「嘘、マジでかよ?」 恋愛に対して相当オープンな思考の持ち主であることは尚孝も認めてはいたが、いったい『誰が』できたのか、それすら尚孝には分からなかった。 森園は高校を卒業して、いくつか職を転々とし、現在は地元の建設会社に勤めている。尚孝のように学生ではなく、すでに社会人のため、結婚してもおかしくはないのだが――しかし、ここまで早く結婚に踏み切るとは思っていなかった。 責任をとる、というある種の『ケジメ』なのだろう。 とりあえず本人が決めたことなら、祝福をしてやるべきなのだが、尚孝はなぜか気後れしていた。 尚孝は、どうにも女性と上手く付き合うことができない。 もちろん女嫌いということはない。異性の友人はたくさんいる。 しかし、一歩踏み込んだ付き合いを、どうしても構えてしまう。 子供が出来て結婚するという同級生を前にして、尚孝は――キス以上の女性経験がまだない、という状態なのである。 ため息交じりの反応で、尚孝の気持ちを察したらしい。森園は受話器の向こうで、豪快に笑ってみせた。 『いいか、出会うのも付き合うのもヤるのも出来るのも、全部タイミングなんだよ。嶋口みたいに理想ばっかり追いかけて引っ込んでたら、一生独身だぞ』 「別に理想追いかけてなんか……」 『ハードルが高いっつってんの。言っとくけど、芝本以上なんてそうそういるもんじゃないぜ?』 尚孝はギクリとした。しかし、努めて平静を装い、淡々と答える。 「お前もしつこいよな。何でそこで菊子が出てくるんだよ」 そう尚孝が釘を刺すも、森園はまるで聞く耳を持たない。 悪友は、尚孝が『芝本菊子』に片想いをしているという前提で、どんどん話を進めていく。 『芝本どうしてるだろうな。お前、連絡とか取ってねえの?』 「全然。向こうから年賀状は来るけど、返してないし」 『何で』 まさか理由を聞き返されるとは思っていなかった。 尚孝は必要以上に動揺し、口ごもってしまう。 「な、何でって……彼氏に見られたりして、揉めたら困るだろ」 『やっぱりお前、芝本のこと好きなんだな。ハハハ、もう隠すなって』 もう、何を言っても無駄だ。 尚孝は受話器に向かって白々しくため息をついてみせた。 『彼氏と続いてるかどうかだって分からないんだろ? 連絡とってみろよ』 「いいよそんな……用もないし」 『じゃあ俺、芝本も結婚式に呼ぶわ』 時間が止まった。 森園の言葉の意味が、まるで理解できない。 「……は? 何言ってるんだよお前。呼ぶほど菊子と仲良くなかっただろ」 『だから、嶋口にその繋ぎを頼むって言ってるんだよ。これで、芝本に電話をかける口実ができただろ?』 「な――」 森園からの電話を切ったあと、尚孝は考え込んで躊躇する前に、菊子の実家に電話をかけることにした。 『はい、芝本です』 「ああ、葉子ちゃん久しぶり」 『うそ、尚ちゃん? 尚ちゃん!』 出たのは菊子の妹・葉子だった。尚孝は、葉子がまだ小学校に上がったばかりの頃から知っている。 最後に会ったのはいつだったろう――尚孝が高校を卒業するときには、まだ小学生だったはずだ。 「葉子ちゃんも、もう中学三年か。随分声が大人っぽくなった」 『ホント? 尚ちゃんにそう言ってもらえてすごく嬉しい!』 葉子は褒められて嬉しかったのか、楽しそうにはしゃいでいる。 葉子は昔から尚孝によく懐いていた。歳の離れた姉と同級生の男――葉子の目には、尚孝が大人の男に映っているのだろう。 「ああ、菊子のさ、今の連絡先教えてほしいんだけど。中学の同級生が今度結婚式やるから、それに菊子も招待したいって言っててさ。それで――」 『お姉ちゃんなら家にいるよ。待ってて、いま代わるから』 瞬間。 尚孝の動揺指数は一気に上昇し、最大値を振り切った。 「ち、ち、ちょっと待った葉子ちゃん!」 『どうしたの?』 訝しげに葉子は尋ねてくる。 尚孝は大きく何度も深呼吸し、確認するようにもう一度問いただした。 「家にいるって、どういうこと?」 『どういうって……お姉ちゃん、就職活動でこの辺回ってるみたいだから。先月からずっとうちにいるんだ。四年になって授業ほとんどないんだって――――あ、ゴメン尚ちゃん。お姉ちゃん、お風呂に入ってた』 「じゃあ、あとで電話くれるよう伝えて。よろしく」 尚孝は念のため連絡先を告げて、電話を切った。 ――何なんだよ。すぐそこにいるんじゃないか。 しかし、菊子は自分に連絡を寄越していなかった。 もちろん、遊びではなく就職活動という大切な目的があるのなら、仕方のないことなのだろうが――電話で知らせてくる五分十分の時間も惜しむことはないのではないか、尚孝の胸にもやもやとしたものが残った。 尚孝があれこれ考えている間に、電話がかかってきた。 何も言わずに、受話器を取る。 しかし、いつまで経っても、相手は無言だった。 尚孝も、黙ったまま。 かかってきた電話なのだから、相手の出方を待つのが普通だろう。 ただ、しかし。 この間は、相手が菊子であることを物語っている。 彼女の声は、ちゃんと尚孝の心へ届いている。 「菊子――」 『うん』 「久しぶり」 『うん』 「年賀状、返さなくてゴメン」 『うん』 いろいろな感情が交差する。たくさんの言葉は要らないはずなのだが、あふれる想いに言葉が追いつかない。 おそらくそれは、彼女も同じだろう。 とりあえず尚孝は、本題をストレートに切り出すことにした。 「今度さ、森園が結婚式するらしくて、菊子にも来てくれないかって言ってるんだけど」 『森園君? ……私、全然仲良くないけど』 ようやく、『うん』とうなずく以外の言葉を、菊子は発した。 「中学の同級生にいろいろ声かけてるらしいから。そんな仲良くなかったかもしれないけど――」 『私、中学時代にあまりいい思い出ないから。無理して呼ばれたって、浮いちゃうだけだよ』 菊子の心がどんどん曇っていく。 もう、余計な口実など、必要ない。 尚孝は、そのまま思っていることを菊子に伝えた。 「俺、どうしても菊子に会いたいんだ」 『……え?』 菊子は驚いているようだった。 尚孝の言葉の真意を、図りかねているらしい。 「俺、菊子が実家に帰ってきてるの知らなかった」 『ああ、うん』 「どうして知らせてこなかったんだよ」 『どうしてって……そんな、尚孝に迷惑かけちゃうし』 「迷惑? なんで?」 『……』 菊子は黙ってしまった。 理由は容易に察しがつく。彼氏の存在だろう。 彼氏がいるから、二人きりでは会えない。彼女はそう、暗に告げている。 しかし。 尚孝は納得できなかった。 自分たちの関係は、恋人ではなかったかもしれない。きわめて仲のいい異性の友人同士だったかもしれない。 だったら、尚のこと――。 「菊子に彼氏がいようが、俺に彼女がいようが、全然関係ない」 『尚孝……』 「そうだよな?」 尚孝はそう、自分自身に言い聞かせた。 しかし、菊子の答えは尚孝の予想に反するものだった。 『関係なくない。少なくとも、尚孝は関係なくないでしょ? 年に一度の年賀状ですら、やり取りしてくれないんだもん』 尚孝は思わず言葉を失った。 長い長い沈黙が二人の間を流れていく。 『……森園君に結婚おめでとうって、そう伝えて』 「自分で言えよ」 それだけ言うと、尚孝は受話器を叩きつけるようにして電話を切った。 いったい、自分は何をやっているのだろう。 菊子に対する怒り。それは、自分に対する怒りに他ならない。 ――何なんだよ。年賀状ですら、って。 自分からの年賀状が、どうしたというのだ。 返事を送らなかったのは、菊子のためを思ってのことだったのだ。 それなのに――。 【菊子に彼氏がいようが、俺に彼女がいようが、全然関係ない】 先程、自分で彼女に言った言葉を、尚孝は思い返した。 これは紛れもない本心だ。 しかし自分の行動と、大きく矛盾している。 関係なくない。 そう答えた彼女が、正しい――。 電話を切ったあと、菊子から折り返し電話がかかってくることはなかった。 数日後。 尚孝は、再び森園と連絡を取った。 結婚式の余興の依頼や二次会の店の相談など、雑談に毛の生えたようないつものやり取りを、二人はしばらく続けた。 話題が一通りすんだところで、尚孝はたった今思い出したかのように、さらりと話題を出した。 「ああ、そうだ。菊子のことなんだけどさ――」 『聞いた聞いた。上手くやったじゃん、嶋口』 そう言って陽気にはしゃぐ森園が、尚孝にはまったく理解できなかった。 「……上手くって、何が」 『芝本、俺のところに電話かけてきたよ』 「嘘!? マジで??」 尚孝は、口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。 嘘だ。 嘘だ。 頭の中は、すっかり混乱してしまっている。 『ホントだって。お前が説得したんだろ?』 確かに。 自分で言え、と捨て台詞めいた言葉を菊子にぶつけた。 だからといって、あまり仲の良くないであろう男に、ありったけの勇気を振り絞って、本当に電話をかけた――なんて。 繊細な彼女のことだ。きっと、相当な緊張と不安を強いられたことだろう。 自分のせいだ。 いくら自分を責めても責め足りない。 尚孝は、彼女が背負った苦痛を自分も半分背負おうと心を決め、森園にその電話の内容を尋ねた。 「……菊子、何て言ってた?」 『おめでとうって。結婚式、招待してくれて嬉しい、ありがとう、ってさ』 尚孝は思わず自分の耳を疑った。 招待してくれて、嬉しい。つまり――。 「出るって言ってたのか?」 『ああ。久しぶりで緊張するから、席はお前の隣にしてくれって、そう言ってた』 「そ……うなんだ。菊子のヤツ」 ホッとするあまり、涙腺がゆるみ涙があふれそうになった。受話器を耳に当てたまま、尚孝はあわてて上を向く。 自分の隣に座りたいという彼女の申し出が、尚孝の心をどこまでも優しい温もりで包み込んでいく。 『お前たちが上手くいったら、俺が愛のキューピッドだな。せいぜい感謝してくれよ』 心の内を見透かしたように、森園は電話の向こうで尚孝を冷やかした。 上手くいく日なんて、はたしてやってくるのだろうか。 彼氏に遠慮して、年賀状一枚ためらう自分が、彼女の心を振り向かせられる日は――まだまだ遠い未来の話となりそうである。
(了)